昭和42年8月27日 夜の御理解
神様がお喜び下さるのは、私共が段々信心が分からせて貰い、神様を信ずる力も段々出来て、ほんとにこの神様におすがりしておけばこの神様にお任せしておけば、おかげが受けられると云うことが段々分かってきて、そして本当に神様任せの生活に入らせて頂こうぞと、もう本当に神様任せということは、親先生任せと言われるのであるから、親先生任せでもう右も左も親先生任せで、行くぞと云う様なお互い腹が決まります時に神様の特別な、特別なお働きがけと云うものが出来て参ります。いわゆる本当に親と子としての情と云うものが交流し出しますですね。
甘木の初代は甘木の安武先生はね、ええ何と云うても当時は日本一と言われた先生でございまして、その先生の仰られる言葉の中に、私は人形じゃ、操り人形じゃ、親神様が人形使いなら私は人形じゃ。手を上げようと仰りゃ、はい、足を上げよと仰りゃ、はいと言うてもう神様任せになっておるんだと。安武先生どうしてこんなに人が沢山助かってまいりますかと言う様なことに対してでございました。ね、 私は別に何も力はないんだと。兎に角神様任せになっておるから助かる。あんた方は神様任せにならん。自分のよかごと行こうと思いよる。自分でこげな風なおかげ頂こうと思うて、神様の右のおかげを下さろうとしておっても、左の方を願うたりしとる様なことがある。それではおかげは受けられんのではないか。と云う様なお話になったと云うことを聞いておりますが、私も大体そうです。
もう本当に神様が右と仰れば右、左と仰れば左の道を、それは場合に依ってはね、そりゃあそんなことはなさらんでもと、例えば身内の者でもいうような時でも、ね、ちょいとあの人はちょっと気が変ではなかろうかと、よし人が思われても又は場合に依っては人から笑われても神様がこうと仰りゃこうさせて頂こうと、こう腹を決めておるんですけれど、そこで段々この合楽ではそういう神様任せになって行こうと云う人達がだんだん増えて参りました。もう親先生にお伺いしてから親先生任せで行きゃよいからが。又事実最近もう本当にあのいわば神様任せ親先生任せでですね、様々な問題がですね、もうそれはもう口では表現出来ませんですね。様々なおかげの中にもう神様のおかげと云うものはもう私共が想像している様なことではないのですよ、ね。と云う様におかげを蒙っておる事実が最近いくつもあります。それはもう例を私があのう実際にお話が出来ないのが残念な位ですけれどもね。色々な人間関係とか経済問題とか、私が現在ね、素晴らしいことじゃねえ、神様の働きちゃ有難いねと私が、私が感心しておる様なおかげが四つ五つもあります。 ここに、ね、
本当は神様任せになると云うことは素晴らしいことなんです。ところがです、今日午前中に私が奉仕致しております時に参って来た方、まあ本当に神様は目に中に入れても痛くないと云われる程に、まあ可愛いと思うておられる氏子だと思うんですがね。その方があの参って参りまして別にお願いをした訳でもなからなければお伺いした訳じゃあないんです。私はその人が参ってまいりましたから、神様にお届さしてもらいよりましたら頂くことがですね、丁度あの今は「 」この権太さんというのがありましたね、可愛いらしい。それが丁度まあそうですね、二尺位大きな権太さんそれがあの久留米がすりを着せてある、ね。男の権太さん、して女の子切株には権太さんがおるんですけれど、男の権太さんだけですよね。 その方は男性の方なんですけれども、男の権太さんも本当に可愛らしい権太さんね。いわゆる自分も親先生の前にいわば権太さんになっているんだと、親先生任せになているんだと、いやなりたいとこう、やはり神様にも申し上げておるし、自分もそのつもりでおるんです。ところがですね、その久留米がすりを着せられた権太さんですね。もう丁度ここへんで云うならばバス停の所に走って行きよる様な無邪気な格好なんです。それをですね、そうですねもう象の様な大きなあのいわゆるお母さん風のお母さんがですね。大きいんですよ、ね。それはもう大きい大きい、人間の何倍あるやら分からんという様な人間なんです。そのお母さんがその小さい権太さんの後から追いかけて行きよるところです。もう腰を曲げてからですね、あまりきょろきょろしながらいきよるもんじゃけん、片一方は、ほうらそっちさん行きよるとあぶなかが、というてその追いかけて行きよるとです。言われれば言うほど後から追いかけて来よるもんじゃからその無邪気に逃げておるところなんです。
丁度私の御神眼におがまして貰うのに、ああそっつあん出よると危なかがと云うて追いかけて行っていると云う様な状態でした。これは本当にこの人だけのことではない。皆が親先生任せ、神様任せと言うておるけれどもです、ね、やはりその悪気ではないのだけれども、自分のよかごと面白がってこうやっておるようなことがありはせんだろうか。そして後から大きなね、親神様がですね、危ないぞ、危ないぞと追いかけて下さるばってんか、余りきょろきょろするもんじゃけん、手をね、手をその払うて向こうに走って行きよるもんですからね。こういう風になります時にはです、ね、神様でも仕方が無いと云うことになって來るんですよ、ね。
例えば、言うことを聞かぬ子は親でも仕方があるまいがと仰る。これはみ教えの中にある。如何に親じゃ子じゃと言うてもです、如何に天地の親神様の守を受けておると言うてもです、ね。言うことを聞かぬ子は親でも仕方があるまいが、手を引かれたら手を振りきって行く。ああせせっかせして行きよった。危なかて、そっちゃい行きよると危なかがと言うて「 」から追いかけて行きよると大きな母親が、ね。そうして転んで怪我をしたり、離れて怪我をしたりと言うようなですね、ことになりかねないのですよ。ですから、私共はですね、もうとことん神様に手を引かれて丁度云うならば、目を取られた「 」さんがですね、ね、手を引かれていわばめくらになりだす、ね。段々盲になっても勘が出来て参りますとね、勘が強うなると一人でどんどん歩いて行くようになりますけれども、まあ目が見えなくなった最初の間は大変な不自由なことであろう。それなら「 」手を引いて貰わなければ危ないのですよ。
お互いにまあだ云うなら心の目、ね。信心をする者は肉眼をおいて心眼を開けよと仰るが、一ぺん信心、神様任せになると云うことは、肉眼を置こうと云うことなんです。
人間の考えでは動くまいと云うことなんです。肉眼的な動きはするまいと云うことなんです。云うならば、もうにわかに目を取られた「まつお? 」さんの様なものですから神様の手にすがっておらなければ、いわゆる親先生任せになっておらなければ危ないのです。それを振りきって無邪気に向こうに走って行こうとする。そこんところを辛抱させて頂く。そこんにきを私は信心辛抱と云うのではなかろうか。
信心修行と云うのはその辺のことなんです。神様に手を引いて貰っておると云うことは、場合に依っては有難いけれども,場合に依っては窮屈なことなんですよ。
今日なんかでも信道推進委員会の会合がございましたが、やっぱり三十何名の方達が集まって、それはもう本当にああ忙しい御用を頂いている人達が色々一杯でございますけれども、それは一番大事な御用だからと云って今日は一時からでしたかね、あの夕方まで皆さん一生懸命でもう会議に加わっております、ね。これなんか手を引かれておる為にです、振りきる訳にもいかんのです、ね。というようにですね、私共がその神様に手を引かれたならばですね、ひとつ自分でいわばやはり勘が強うなるまでは神様のことは離れてはならんですね。「 」心の目が本当に開けるまで、願いの信心をさせて頂くと云うことは、先ず人間的考えからいわゆる心眼、心の目を開けれる中に生活をさせて頂こうと云う喜び、安心の生活に入ろうと云うのでございますからね。
何時までも人間心を使わずに人間的な思いを捨て切るというところにです。ところがそれがぎこちない。今目を取られたらどうなるか。そこでどうでも窮屈であっても苦しゅうあってもです、場合に依ってはですよ、場合に依っては又そうして行けば撫でさすりさせられる様なおかげも頂きますけれどね。苦しゅうても窮屈であっても、やはり神様の手にすがって行かなければならん。親先生の手にすがってならんね。そうして行くうちにですね、神を杖につけばと仰る様に神様を杖についてから、自由自在にそれこそ目開よりも自由自在に勘が強うなって來ると云うことになって参ります。?でございます。それが徳を受けた人の姿と云うことになる。肉眼をおいて仕舞ってるけれども、心の目をもって自由自在のおかげが受けられる。
今日私がお取次ぎさせて頂いたその方の場合でも、その方だけではありますまいけれども、本当にこれは私が見ても私から言うても目の中に入れてもこれは痛くないような感じがよい信心をされるんですね。けれどもやはり、そのいかにも任せきっとるごたるけれども、この事だけは任せられないと言ったようなことがあるんじゃあないでしょうか。そして神様の手を払いのけるようにして自分で無邪気にその表通りに出ておる様な感じ。それを神様は後から追って行きよんなさる。そういう時にです、言うことを聞かぬ子は神様でも仕様があるまいがと仰る様に、如何に神様がどげな力でももってござると言うてもです、神様でも親の言うことを聞かぬ子は親でも仕方があるまいがと仰る様なところがあると云うことを知らなければいけません、ね。そして神様から、あの捕まえて頂ければまだ良いのですけれども、ああ振りきっといてから面白がって後から追いかけて來ると、その無邪気に外に遊びに出てから、こけたり転んだりと云ったようなことになってから、そして又神様と云うて来たんでは神様も目の前で子供が怪我する様に親の切なさと云うものがですね、今日私新聞を読ませて頂いておりましたら、今日もそういうのが出ておりましたですね。お道の新聞に。本当に親の目の前で三輪車に跳ねられてと、奇跡的におかげを頂くという話が出ておりましたが、本当に親の目の前で怪我する位親不孝なことはないと思います、ね。このへんなところも信心させて頂く者はよーと分からせて貰わねばいけん。なるほど神様任せになっていることは場合に依っては苦しいんです。場合に依っては窮屈なんです。けどそこんところを通り抜けて行くうちにです、勘が強くなってくる。もう神様の方がはずしなさったっちゃ、もう神様の勘の強うはなすことのない様に肉眼をおいて心眼を開かせて頂けるところの徳を受けられるのですよね。 どうぞ。